経験とともに感性の鈍化を感じる
ブログを読み返していて、
自分や周りに起きて、感じて、書いている(はずの)
過去のブログを読み返して、
「え?!そんな宝物みたいなことがあったの?」
「ああ、正しい時系列のストーリーでは思い出せないけど、そういうことを強烈に感じた気がする」
そんなポストに出会うことが多いです。同じ、私なのに。
この夏前くらいから、
Instaでもtiktokでもなく、
突然、再開したこの一人称のブログ。
30歳になる前にドメインやサービスに依存しない自分のWebを持つ、ということで始めたのだけど、
10年前に書いていた内容との違いを、何もない日曜の朝、ベッドでごろごろしながら読んでいて、ひしひしと感じます。
当時の私の方が、
きっと生きるのが今よりも大変だったんじゃないかなって思うけど、
それから、いろんなことがあって、
仕事もプライベートも
人生の経験を重ねた私は、
少しだけ何かとうまく折り合いをつけられることと引き換えに、「感じる」ことが結果的に減ってしまっているのじゃないかなって。
麻痺、適応、成長、心を殺す。
どれがしっくりくるのか、どれもしっくりくるような。
立ち上げた時や、数年前のポストは
今の私では、きっと言葉にすることができないような
体験と、ちょっとよく見せようとしているような表現が入り混じってて。
でも、いろんなことを、少しだけ上手にできるようになったり、
私を理解して愛してくれる人達と向き合えるようになったりして
(肉親含む)
今の私が日々感じることや、綴りたいと思う言葉があるのかなあ、と思います。
どっちがいいの?
どっちが私らしい?
その問いは、毎日ぐらぐらしちゃいそうだなあ、って思いつつ、
今の私は、あの頃より、自分を生きている、って気がしているんだよ。
Mao、ややこしめの41歳の秋をつづる
(ギフテッドなことがわかって、色々辻褄も会う今日この頃)
さあ、おしまい。